2008/04/11

アッという間 その15 「良いことみっけ!意識改革」

セミナーを受け、弊店の良いところをたくさん見つけた。わたし。

一番はスタッフ!彼らは実に優しい、思いやりのある、素直な人、素朴なキャラクター。

難点は、自分の良さに気づいてない。どちらかといえば、受け身、マイナス思考・・・。

現場に入った時にはことあるごとに、彼らの良さを伝えるようにした。

「ほめる・感謝する」

良いアイディアがあれば伯父に伝え、形や行動に起こしやすくしていった、伯父と私の性善説と性悪説のバトルはあったものの・・・とにかく管理ではなく、風通しの良い環境に努めた。

スタッフを信じていた。 伯父も同じではあったが、昔の痛い経験が伯父を頑なにしていたと思う。

一番良かったのは、お客様のお褒めの言葉を調理場のスタッフに伝えることで、お客様の笑顔への喜びが、全スタッフ共通のモチベーションになった!

調理場のスタッフもお客様の「おいしい!」の一言のためにいろいろな工夫や研究、努力をしていると、お客様にもお伝えするようにした。

そんな当たり前のことを再認識し、自分たちの仕事への喜びとお客様への感謝の気持ちを強く引き出すことが出来た。

喜びが益々料理の工夫などにつながって・・。ある時、料理長から、日曜も営業しましょう!と申し出があった。人員にも余裕があったので、交代で休めば、営業できますと。

以前から、遠方のお客様から日曜も営業してもらいたいとのリクエストがあることを料理長に伝えていたことが引き金のようだ。若いスタッフも育ってきて、チャレンジする時期にきていたし、良いタイミングだった。

伯父はこのまま売り上げが減る場合、スタッフの削減も視野にあり、出来れば避けたいと考えていた。そんな時期のスタッフからの積極的な申し出にとても驚きながら感謝していた。

伯父と私の性善説と性悪説のバトルは、私の勝利になった!!! 

2008/04/10

アッという間 その14 「勘ピューターとコンピューター」

さて、決心も固まり、いざ本格的にこの店はどこに行くんだ?と思い始めた。

売り上げは、減っては居たが、赤字ではなかった。しかし、現金商売の資金繰りは大変だった。

時々、支払いが遅くなることも・・・。 そのたび、私があやまり役・・・ 恥ずかしいし、腹立たしかった!

なぜなんだ?と経営状態を考え、原因をとらえ、改善策を考えたりしては居たものの、どのように伯父、現場と共有したらいいのか?そして、私の考えは正しいのか?以前の職場で、販促や経営を囓っては居たものの・・・伯父との会話はかみ合わない、伯父のマイナス面ばかりに目がいき、腹を立てることが多かった、わたし。

伯父は創業者、経験に裏打ちされた勘や経営ノウハウ、変な慣習?がある・・・正面からの勝負はムリ、太刀打ち出来ない・・・何かないか?と思っている時に、仙台市で主催する、日本で一番と言われている、コンサルタント船井総研のセミナーがあることを知る。実はそのときは船井総研が日本でもとても有名なコンサルタント会社とは知らなかったのですが・・・ 

勉強になりました~。そして、伯父のすごさも知ることになりました。

その勉強のときにうちの店にはすばらしいものがたくさんあることに気が付いたのです。良い素材があるのに活かせてない・・・。そのセミナーで、伯父への対抗策を講じるつもりが、30年以上の経営者としてのセンスの良さや経験が店をここまで続けてきたと知ることになったのです。

お陰で、活かす面と改善面のポイントを確認できました。

マイナス面ばかりでない、良いものみっけ!とうれしくなりました。

2008/04/07

アッという間 その13 「迷いと決心!」

先日、アッという間の12年シリーズを読みましたよ、と仰って頂き、感謝です。

気恥ずかしい・・・・。そして、まだ途中ですね!と・・・・。

ちょっと迷いがあり、書くのをやめていました。

気が付けば、2年以上過ぎてますね。。。時が過ぎるのは早い。

久しぶりに、読み返して。。う~ん。 成長してるのか?してないのか?

その13は迷いと決心!とタイトルを決めました。

この仕事にこんなに長く携わるとは思わずに・・・もう15年。

バイト気分が消えたのは、手伝い始めて3年が過ぎた頃。

迷っていました、伯父の体調は良くなりましたが、ひとり暮らし、店の状況も今いち。せめて店長と伯父の間がうまくいって欲しかった。

そんなころ、お年頃でしたから、結婚も考えていました・・・しかし決心が付かない。

結局、うまく話がまとまらず。。。ひとりで生きていくことになるかもな~。と考えはじめ、自分の中で何か、この仕事を続けて行く決心を固めるものが欲しくなった。

大きな買い物をした。

男女雇用機会均等法のお陰で、女性も住宅ローンが組めるようになっていた。

タイミング的に、金利も地価もおおよそ底値、今かなと思った。

祖母は女性が借金できるの?と驚いてた。

昔、女性は住宅ローンが組めなかったんですよね。組めても、男性の保証人が必要だったはず。

祖母や家族に頭金の援助を受けることになり、そして、伯父に話すと買えるなら良いのでは、ということだった。

家族からあまりにあっさり、OKが出た展開に驚いたのだが、家族みんな本気で買えると思っていなかったのかも・・・、または借金を持てば私が落ち着いてくれるだろうと思ったんだろう。放浪癖があるので・・・(^_^;)

わたしの家族は堅実、わたしは堅実よりチャレンジを選ぶ方なので・・自分でも、短気を起こして、伯父や店長とけんかをしないように、足かせが必要だと思っていた・・・。

それでもまだ迷いは残っていた・・ある日

フランス在住の友人から電話が来た、ご主人の会社の日本支社の人を紹介するから会ってくれない?と。

何で?と思ったが、交通費も出してくれるという。

熱心に勧めてくれるので、理由もはっきりわからなかったが、交通費を負担してもらうのは遠慮して、従姉妹の娘の結婚式に出席するため、東京に行く予定があるので、そのときで良ければということで会うことにした。

お会いすると 近々、日本人スタッフがひとり辞めるので英語かフランス語が話せ、経理も出来、外国人とのコミュニケーションがうまい日本人スタッフを探しているとのことだった。それで友人がその方に紹介してくれたらしかった。 はっきり面接とは言わなかったのは、フランス語が話せる人が良かったのだろう。いずれ、フランス語も話せるようになってくださいね、と言われた。いつかは話してみたいと思っていたフランス語・・その方も教えますからと言ってくださった!

熱心に東京に来ないかと言って頂き、仙台にも来てくださった。とても迷った。行きたい。この閉塞感からも抜け出したいという気持ちだった。

そして伯父と店長に話した、ふたりとも「いいよ」と言う、しかし、ふたりの寂しそうな「いいよ」が胸に刺さった。

迷った・・・考えた・・・。三十路を過ぎて、東京?フランス語?う~ん、ラストチャンスか、やってみたい。 かなりのチャレンジ。でも・・・。しかし・・・・。 行ったり来たり。。。。 ふたりの「寂しそうないいよ」・・・。 

結局、お断りをした。

伯父と店長に断ったと話すと・・・何とも「ほっ」とした表情・・・ふたりを見て、これで良かったんだ、と私のなかで、迷いが消え、大きな覚悟が出来た。

まだ、先は見えないが、やれることを、とにかくやってみよう!

その件以来、店長と伯父はギクシャクではあったけれどコミュニーケーションを取る努力をしてくれた。徐々に距離が縮まったようだった。うれしかった、それだけでも、行かなくて良かったと思った。

人生での決心、覚悟は人を強くしますね。

2005/06/01

 アッという間 その12 「トイレでこっそり泣く」

伯父との対立であまりにも分からず屋なので悔しく、情けなくなり事務所のトイレで泣いたのは数えられないほど。

ある時、スタッフの女性が店の裏で泣いていたことがあった。どうしたのと訊ねると、料理長(今は退職)に怒られたらしい。彼女は納得がいかないらしく、必死に涙をこらえていたが、目から溢れるものが止まらないようすだった。

正確な内容は忘れたが、彼女の言い分もわかり、彼女にとっては理不尽だと感じるのだろうと思った。

そのとき私が、上司に理不尽だと思うことで叱られたり、意見が合わないことは当然会社に勤めていたらあることです。私も何度も泣いてます。と言ったら彼女が驚いた顔で、「私は今まで一度もなかった」と言う。しばらくして落ち着くと、素直で頑張り屋の彼女は「私が子どもで甘かった。」と言って笑顔で店に戻っていった。彼女はそのとき40代半ばだったと思う。

この仕事を12年、仕事は同じ仕事を10年以上やってはじめて見えてくるものが有り、はじめて感じる楽しみもあると思うようになってきた。

そのスタッフはもう10年以上のベテランになり、今は仕事を楽しんでくれているようだ。

振り返って見ると、20代前半は仕事はお金を稼ぐもの、お茶くみ、コピー取りぐらいの仕事しか与えられなくてつまらなかった。。20代後半、肩書きが付いた。。。後輩への責任を感じるようになる。上司との対立はお構いなし、直球勝負! 30代、周りの調和を考え上司の性格を読み、いくらか対応が上手くなる。だって若い、真っ直ぐ、では済まなくなるもんね。すみませ~ん!ごめんなさ~い!の可愛い子ぶりっこ(言葉が古いかな?)も効かないしね。

9年前 私はルームメートが2人(日本人とイギリス人)いた。今は珍しくないが、ルームシェアーだ。2人は20代前半と半ば、仕事に対する不満、上司に対する不満や愚痴を聞く毎日だった。。特にイギリス人のルームメイト^^;

大変だと思うこともあったが、かなり自分自身を振り返ることになり、反省しきり(^^;)・・・・自分にとってもいい時間だった。

日本人のルームメートは「辞めたい!」と事あるごとに言っていたが、他にやりたいことが見つかるまで待った方がいいと説得した。

イギリス人のルームメートの話は毎晩聞いても収まらない。内容は同僚との対立。英会話スクールの女性教師同士のジェラシーかな・・・

ルームメートはあの有名なイギリスのK大学を卒業してるのに、美人で大したことのない大学卒の先生やら不真面目な日本人と酒盛りが上手な先生たちが人気があるのがおもしろくない。自分は教えるという仕事をまじめにやっているのに彼女たちは適当な先生たちだというのだ。

私は日本の英会話スクールの内幕をすこしは知っているので、彼女のスクールに限らず日本のスクール?英語教育?に問題もあるだろうからと、どうにかなだめすかしていた。

そして今二人は・・・・

日本人ルームメートは会社を辞めず、転勤願いを出し、自分の実家のある営業所に移って勤続10年以上になる。今は肩書きも付き、指導的なポジション、全国を出張で飛び回り、月に1週間ぐらいしか自宅で寝ないときもあるそうだ。時々仙台に出張に来たときは食事をするが、今は仕事が楽しい、あのとき辞めなくて良かったと言っている。

イギリス人ルームメートは一度イギリスに帰って、日本政府のプログラムで日本の中学校に勤めたが、1ヶ月で帰国した。私立の英会話スクールと違ったことができるかと思って期待しての再来日したが、がっかりしての帰国。

去年、高校時代の先輩(男性)から、職場の後輩がアメリカに視察に行くことになったが、アメリカの様子やもし友人がアメリカに居るなら通訳として紹介してくれないか?と電話があった。とりあえず、その後輩と会うことになり一緒に飲んだ。先輩の職場は10年前まで男性オンリーの職場で彼女が女性一期生だった。彼女も同じことを言っていたな、やはり10年かな。

そのとき地元大学の女子学生アルバイトの多い先輩行きつけのスナック(ママは同じ高校の大先輩らしい)に行った。私たちが飲みながら、10年も仕事をする間トイレで泣くことがなければ仕事ができるようにならないよね!なんて話してると、ある学生アルバイトが「そうなんですか~。私、就職決まって、春から働くんです。」という。

私と彼女で10年と思ってがんばるのよ!と励ましていた。 

実は男の人はもっと泣いてるのかもね。。。と先輩を見ると、女性も大変だな~!とぽつり。

2005/04/18

アッという間 その11「販促とインターネット パート2」

インターネットがだいぶ知られるようになったころ。

伯父がずいぶん新しいお客さんが増えてるな。しかも、大手の会社が多い。

これは、ホームページのお陰ではないか?と言い出した。

私は、え~?? そうかな~。。伯父がビックリしてるほどとは思っていなかった。

でも、確かに広告を出してるわけでもないのに新しいお客さんが増えるのは・・・

しばらくすると、現場から お客さまからホームページに書いてあることが話にでるようになったというのである。 

あら!伯父の読みは当たってるのかしら?

それまで、スタッフにはホームページにこんなことを書いてるよ。と時々プリントして渡したり、ネットの話やメールの話をしても、今イチ反応が薄かった。しかし、お客様から色々ホームページにこう書いてあったけど・・などとお話を頂いて、スタッフも以前より意識して商品知識をつけてくれるようになっていった。。

また、隠居の話などを文字にすることで、店のコンセプトが明確化され、スタッフにも浸透し、スタッフ同士や経営サイドとの意思統一ができたように思う。

販促よりもこの効果が店にはとても大きな力になったように思う。

その12に続く

2005/03/12

アッという間 その10 「経営者の孤独」

はじめはHTMLタグを打ち込んだり、他のページのタグをコピーしてアレンジして張り付け、FreeのFTPソフトでUpしていた。
それから、Winのfrontpageで作り始め、今はIBMのソフトを使っている。

技術もないのだがコンテンツも悩んだ。
大手の様な立派なものは無理なのは分かっていた。

そのころ、新しく知り合う人に店の話をすると
あああ~、名前は聞いたことあるけど何の店?と聞かれることが多かった。たぶん、CMをテレビで放送していたころ、見たことのあるのかな。若い人はもちろん知らない。
キーハンターなんかを隠れてみていた世代は知ってるかな・・・・(^O^)

創業30年以上になるのに知られてないんだ~!と思った。

伯父に、飲食店で老舗って何年位をいうのかな?と訊いてみた。
伯父は、一般に企業は30年の寿命と言われてる、30年越えれば老舗にあたるかもしれないと言うのである。
たしかに、飲食店の寿命は一般の企業よりも短い、国分町では毎日1件は潰れているし、今はもっとかな?

へ~え!と思った。地雷也は老舗!?そうか・・
おじさん、色々苦労してよく頑張ったね。お店大事にしなくっちゃね!とコンテンツを考えながら伯父にぽつりと言った。

そのとき、頷いた正気のなかった伯父の顔に赤みが差した感じで、いっきに明るい笑顔になった。

私、あの笑顔は忘れないと思う。
伯父は事業を失敗した過去を引きずっていて、前に進めないでいたんだ。
それから、伯父が変わった。

それからしばらくして、伯父にHPを理解して、興味を持ってもらいたかったので、「隠居の話」を気の向いたときに書いてもらうことにした。

隠居の話を書くにあたって良かったのは、どんな話を書くか打ち合わせている時に、
伯父が創業したときの夢や理想が見えてきた。

方向性は間違っていなかったのに・・・でもつまずいた。
経営者の孤独も垣間見えた。

その11に続く

2005/03/10

アッいう間 その9 「販促とインターネット」

伯父は伯母が亡くなって、一人暮らしになった。 デフレはスパイラル状態。

伯父の友人たちは一人暮らしを心配していたが、意外にも家事が嫌いではないらしく、それなりに暮らしていた。
伯父に言わせれば、海兵で料理や裁縫までやらされたから どうってことない。というのだ。

でも、体調が悪いときだと思うが、弱気なことを言う。売上げが芳しくないときと体調が優れないときが重なると、早く迎えが来ないか、俺が死んだら保険で借金を返せ、だった。

私はこれから益々厳しい、売上げある程度伸びる見込みがない、
街に事務所を構えるのはきつい、事務所を閉めようと言っていた。

しかし、伯父は頭を縦に振らない。黙りか、いいんだ、だめだ、などと短いセンテンス。

伯父としては、事務所を閉めるとなると、共同でフロアーを借りている、海兵の同窓会館のような仙台ネービークラブの運営にも影響するので、創設メンバーとしてはできなかったのだ。。。。
それに、古い友人で建築会社を閉め、伯父の事務所にいる建築家の先生の行く場にも困る。

今は伯父の気持ちが分かるのだが、伯父は自己表現が下手なので、私はなんで~。と責めていた。
私は店がつぶれ、まわりに迷惑を掛けるのが心配だった。
プラス、事務所を閉めたら、このバイトは辞めようと思っていた。伯父の気持ちも知らないで。。。

とにかく、客足が減っている月3の常連さんが月1の感じになっていた。
新規のお客様も少ない、販促らしい販促もしていない。
何か販促・・・・伯父に話すと。
昔はテレビで広告出したり、新聞に広告出したりして、地元新聞社の招待でアメリカにも行ったなどと、昔話。。。

昭和40年代、1ドルが360円のころ、持ち出しできるお金にも制限があった時代。
空港に従業員が見送りに行ったそう。
ジャンボジェットが飛ぶようになったばかりの頃で、無事帰ってくるか心配した記憶がある。
おみやげはアメリカの国旗が描かれてる、ボールペン、すっごいものをもらったと思った。
今なら、機内で売ってるようなものだ。

ちなみに、飲食店のラジオやテレビのCMは夜遅く、11時以降だったか、10時以降だったか。。。と制限があったとのこと、昼間の枠にはいくらお金を積んでも出せなかったそう。差別?? 食べもの屋で変な店ではないのに。と納得できなかったと伯父は怒っていた。

そのころ、転勤で岩手や東京にいる友人たちと久しぶりにみんなで温泉に行こうとなった。
友人とのやりとりはメールだった。友人たちは上場企業なので、会社のアドレス、会社でPCを見ていた。
私は個人で仙台にniftyのアクセスポイントが1つあったころにアクセス、パソコン通信と言われていた頃だ。
仙台ではプロバイダーが1カ所、行政主導のところがありインターネットにアクセスする契約はすごく高かった。

再会は、みんなの中間地点の温泉で待ち合わせしようとなった。
場所はネットで温泉を検索してみんなで決めた。

そのとき、ネットの便利さと広告としての有効性を知った。。同じデータが離れたところの人間と共有できるんだ。
これは販促に使えるとピンときた。

伯父に、HPを作ろう予算が欲しいと言ったが、あっさり却下。
確かに、業者に頼むとかなりの料金だった。実際、HPは大手の会社案内の立派なHPばかり。

東京の飲食店のHPはあったが、大手。仙台では一件もなかった。

どうしよう。。。。。

そんなとき、たまたま参加していたボランティアグループに東北大の先生がいた。
先生がネットでHPのHTMLタグの資料を見つけ、持ってきてくれた。

自分で作れるかも??スペースはジオシティ・・・無料のサイト。
商業目的ではだめなのだが、そのころ仙台のコンテンツがなかったので優遇されていたようだ。
SEO対策も知らない頃だが、仙台・宮城・飲食店で検索すると、必ず1番だった。

ラッキーだった。

その10へ

2005/02/04

アッいう間 その8「デフレスパイラルとスローフード」

マクドナルドに始まり、牛丼屋とあちこちで低価格競争が始まったころ、今度は伯母が病気になり、約1年弱、あっという間に伯母は他界し、伯父は看病ですっかり痩せてしまった。

このバイト、しばらく辞められないな~。

仙台ではとても有名な老舗の大きい料亭がのれんを下ろすことになり、その後、つぎつきと中小の老舗料亭の灯りが消えた。

それからかな。。国分町に粋で凛としたお姉さんたちいなくなってしまったのは~ぁ!!
昔、私が子供の頃の国分町は大人の来るところで20歳代で来るのは、上司や先輩とだけだった。
ちょっと大人の世界を見るスリルとドキドキの楽しみと、大人のマナーを知るところだった。

可笑しいと思った。マクドナルド安いけど、バンズ(パン)昔より薄くなってない?
お肉、何となくパサパサしてない?一個ではもの足りな~い。。

スタッフは忙しいのに給料は同じ?そんなの長く続くわけないよ。
スタッフがかわいそう。
案の定、オーナー所得番付に載ったと思ったら、その後 辞めちゃったよね~。
そこまでどこかの国を真似なくても。。。。。(;_;)

そのころ店長は 料亭がなくなったためか、市場で高級食材が以前より手に入りやすくなったというのである。

新鮮なネタは市場での相場だ。買い手が多くつけば値が上がる。しかも老舗の料亭は市場と長いつきあいだ、当然、一番に良いもを手に入れる。買い手がなければ、値が下がるのである。
しかし、上手に仕入れないと大変、仙台のものでも高値の付く築地に流れていってしまうのだ
良いものは安いものほど価格は下がらなかったが、いくらか手にはいるようになった。それからだんだん良いものと、良くないものとの値段が分かれて行く時代になったように思う。

デフレだからと、ランクの低い食材を仕入れたり、値段を下げるために量を減らしたりするのは地雷也の方向性に合わない。地雷也の良いところは、美味しいものを「食った~!!」と実感できる量でなければならない。調理法も食材の味を楽しんでもらうため、シンプルにしてある。地雷也のお客様はバブル期に良いものを食べてきたお客様ばかり。年に一度、季節ごとなど美味しいものを食べに地雷也を目指し、ご来店頂くお客様も多い。裏切ることはできない。

そのころ伯父がイタリアのスローフード運動の話が載っている記事を見つけた。この理念、地雷也の考えとまったく同じ、店の方向性は間違っていないと感じた。早速、ネットで検索したが、スローフードについての日本語のページは2頁のみ、確か何かの記事をそのまま載せたページと、日本スローフード協会のページでまだトップページだけでリンクされた他のページは工事中ばかりだった。。まだ今のように地産地消が話題になっていなかった。
ちなみに、英語版はヨーロッパ圏のみで、アメリカはなかった。さすがファーストフードの国だもんね~。
そのころの市場に東北・宮城の産地を表記された野菜が意外に少ないことに気づく。

炭についても、最近はまた炭が見直されていて、炭焼きを再開し始めているが、7.8年前は後継者がいなくなっていた。その中で学校の先生を辞めて七が宿で炭焼き名人に弟子入りして、炭焼き職人になった佐藤光男さんがいると聞き、彼の焼いた白炭を仕入れることにした。彼は黒炭はあるが白炭は材料も少ないしたくさん焼けないので量がないということで、とりあえず入れて頂ける量を仕入れることにした。その後日本は中国産の備長炭ブームが始まった。伯父は可笑しい、備長炭は紀伊産の姥女樫を焼いたものを言うのに。。。と不思議がった。

そんな出来事から、一般に売られているものの表示に疑問がわき始めた。以後、とにかく宮城・東北・北海道産の食材に より一層こだわるようになった。

それからだいぶ経ってから、いろいろな食材の産地表示についての事件が起き始めた。中国産の備長炭も輸入制限で使えなくなった。安いものを仕入れる誘惑に負けず、デフレに耐え、良いもの・確かなものを仕入れていたお陰で、傷を負わずに済んだ。

何より支えてくれたのは変わらずご来店くださったお客様があったからこそだな~。

最近、ある農家さんから以前は自分が作った立派なアスパラを北海道産として仙台のスーパーで並べていた、とてもいやだった。と聞いた。そのころ、大きく良くできたものは北海道産としただけで売れ行きも値段も全然違うという。今は地元の食材にこだわり、質で仕入れてくれる業者が増えたので有難いし、張り合いになるというのである。

その9へ

2005/01/31

アッという間 その7 「キラキラ光る白い道!」 

対立は伯父のワンマンぶりが原因なのは分かっていた。
2人には現場からの意見があった。しかし、伯父は説明をしない、
トップダウンだ。

どこの会社も同じだと思うが、説明のないトップダウンは、景気の良いときならスタッフが納得していなくてもどうにか回るだろう。。
でも景気が悪くなってくるとそうはいかない。 
批判が聞こえてくるようになる。

飲食店は人と人との商売だ。店の雰囲気で売上げも左右してしまう。スタッフが生き生き働いてないと、美味しいものも美味しくない。

幸いにして、二人はお客様に可愛がって頂いていた。
店長は、自分はお客様に育ててもらった、そして今も育ててもらっていると思っている。

店長が働き出す前からのなじみのお客様も多い。そのお客様たちが、店長を暖かく育ててくれたのだと、私も感じていた。私たちの子供の頃まで知ってるお客様もいるのだ。。。;(^^;)

先日も店長がとてもありがたいお叱りを受けたと言うのである。
ある社長がこっそり店長を叱ってくださった。それは先輩たちが当然のようにしていて、今も多くのお店で行われる国分町の慣習。あくまで親切心で始まったと思うが、不必要なことだった。店長はその何気ない慣習を行っていたことを非常に反省し、以後気をつけるようにした。

私たちはお客様に貴重なお叱り頂くこともありますが、暖かい気持ち、感動も頂いています。

ある日、接客中にお客様の美味しい!という幸せそうな笑顔を見て私までとても幸せな気持ちになっていることに気がついた。美味しい!の時の あの笑顔。本当に最高です。何とも言えない幸せそうな顔なんです。
ああ~。この仕事の醍醐味はこの笑顔だな~。と この仕事だから得られる特別な瞬間!胸が一杯になった。

そういえば、先日飲んで夜遅く 寒い雪の日タクシーで帰宅する時、運転手さんに寒くてこんな日の勤務は大変ですね。明日の朝は凍って大変でしょう。というと、「でもね、こういう寒い日の勤務の翌朝はキラキラした真っ白な道が見られるんだ。とてもきれいなんだよ。」と教えてくれた。
どんな仕事にも苦労はあるけど、この仕事だから味わえる素敵な瞬間ありますよね~!と運転手さんと盛り上がった。

あるお客様は20年ぶりに来ました。まだ店が在って嬉しい。学生の頃の思い出の店なんです。ありがとうと。
また、あるお客様はお酒を父親とはじめて飲んだのはこの店です。またいつか行きたいと思っていたと言われた。
あるご夫婦には結婚前、遠距離恋愛で仙台で初めてデートをしたお店です。と言われたり。。。

商売を永く続けると、こんなありがたい感動を頂けるんだ~と。
じ~ん。。。!!

あるアルバイトが働き始めたばかりの頃、彼女は以前マニュアルのあるファミレスでバイトをしていたが、ファミレスではお客様が注文するとき、ウエイトレスである自分の顔を見て注文されてことがなかった、でもこのお店のお客様はスタッフの顔を見て注文するんですね、ビックリです。というのだ。
しかも、レジで美味しかったありがとう。と仰って頂いたときは感動したと。。。

改めて、私たちはお客様の特別な時間の一部に関わっているんだ。
大切にしなければ、永く続くようにがんばらなければと思った。

しかし この仕事はお一人お一人のお客様から教えて頂く、勉強の毎日。
自分たちの未熟なところを反省し、今日より明日を目指すように心がけるしかないのかなと思う。
完璧にできたらいいのですが。。。すみません、未熟者です。_(._.)_

その8に続く

アッいう間 その6 「伯父との対立」

手伝いはじめて数ヶ月が過ぎたある日、伯父が床屋に出かけて行った。

1時間くらいでニコニコ戻ってきた。めまいがすっかり取れたというのだ。まさか!?
伯父の話では、床屋で散髪後首をマッサージしてもらったら、頭の中でピシッと音がして それからめまいが治まったというのだ。嘘みたいな話だが、主治医の先生の話では詰まっていた血栓が取れたんでしょうというのだ。。。え~???先生は彼は幸運だ。ふつうはその血栓がどこかに詰まって脳梗塞や心筋梗塞を起こすのに元気になっている。運が悪ければ死んでいるというのだ。。。

私はだまされたような気分だったが、ほっと安心した。それから伯父は元気になっていった。
でも、私とは対立することが増えていった。

それは私がそれまで疑問に思っていたことを、質問しては攻めたり、改善策を提案したり、生意気なことを始めたからだ。
伯父の返事は「良いんだ。」「だめだ。」と説明なしの、頭ごなしだった。

私がプリプリ怒ってると、伯父の古くからの友人の元税務署長や建築家の先生はじめ、海兵仲間のおじいちゃんたち(その4)が慰めてくれたり、諭してくれ、何度となく救われた。今も とても感謝している。

伯父が元気になったんだから、このバイトいつ辞めようか?できれば、すぐにも辞めたいと思っていた。
でも、気になることが。。。。。

<<<<<店の状況>>>>>
時々店を手伝っていくうち分かってきた。現場を仕切る店長とママ対伯父の関係がかなり悪いのだ。二人とも伯父を避けている。

店長は伯父がその10年ぐらい前に事情があり住まいを東京に移すことになったとき、誰かに店を任せたいが、子供たちは事業にはいっさい関わりたくないというので困っている。借金もあるし。。

気の毒に思った兄が大学を辞めて店長として店に入った。経営者の世間知らずの甥の若造が冠をつけて入ってくればどこでも起きることだが、いろいろ苦労をし、とにかく仕事は何でもやるようにしてがんばって10年くらい、やっとスタッフから信頼を得ていた頃だった。

ママは伯父が事業に行き詰まって、自殺まで考え始めていたときに励ましてくれた人で、兄のサポーターとして伯父が店に入れた人だった。そんな二人との対立。。。どうにかしないとバブルが終わって不景気がこの先どこまで行くか分からないのに乗りきれないと思った。

昔の伯父の苦しいそうな姿がよみがえる。。またあの姿を見るのは嫌だった。

その7へ続く